「まぁ……。私のような者の為に、このように素敵な部屋を貸していただけるなんてまるで夢のようですわ」イレーネはルシアンとリカルドに案内された客室に入るなり、目を見開いた。高い天井、落ち着いた壁紙には風景画が飾られている。部屋に置かれたベッドも家具も全て高級な物だった。「そうですか? そんなに気に入って頂けましたか?」リカルドは笑みを浮かべる。「ええ、勿論です。むしろ、勿体ない程ですわ。私ならその辺の納戸でも良いくらいですし、廊下で寝ても構わない程なのですから」「き、君は一体何を言ってるんだ!? 客人にそのような粗末な扱いなど出来るはずないだろう!?」あまりの言葉にルシアンの声が大きくなる。「落ち着いて下さい、ルシアン様。そのような大声を出されてはイレーネさんが驚かれてしまいます」しかし、当のイレーネは全く動じない。「いいえ、大丈夫ですわ。その程度の声が大きいとは少しも思いませんので。実は、私も少し喉に自信がありまして……なんでしたら今ここで大きな声を上げてみましょうか?」その言葉にルシアンは慌てた。「いい! わ、分かった! そんな真似はしなくていい!」「……そうですね……。私が大きな声で叫べば、皆様を驚かせてしまいますね。失礼いたしました」少し残念そうに謝罪するイレーネ。「いや、別に謝ることはない」「本当にイレーネさんは面白い方ですね」眉間にシワを寄せるルシアンに対し、笑顔のリカルド。「とにかく、君は客人なのだ。この部屋は好きに使っていい。それと……今夜は夕食を共にしよう。今後のことで、まだまだ話をしなければならないことがあるからな」「まぁ! お、お夕食ですか……? こ、この私に……?」目を見開き、口元に両手を当てるイレーネ。「あ、ああ……そうだが……?」戸惑いながらもルシアンは頷く。「先程美味しいサンドイッチを頂いたばかりなのに……まさか、お夕食まで出していただけるなんて……本当にお言葉に甘えてよろしいのですか?」「君はいちいち大袈裟な人だな……夕食を提供するぐらい、別にどうということはないだろう?」「いいえ、それでも私にとっては身に余る光栄です。何から何まで、ありがとうございます」ニコニコと笑みを浮かべるイレーネ。ルシアンはイレーネの置かれた状況をまだ何も知らない。そこまで踏み込んだ話をリカルドから聞かさ
19時―― 書斎でルシアンとイレーネはテーブルに向かい合わせで着席していた。「ほ、本当に……こちらのお料理を頂いてもよろしいのでしょうか?」イレーネは並べられた豪華な食事とルシアンの顔を交互に見ながら尋ねる。数えただけで料理の種類は7種類もあった。「勿論だ。……本来なら、ここでワインでもつけるところだが……今夜は大事な話があるから、悪いがアルコールは無しだ」「ワインだなんて……! とんでもありません! 私はお水で結構ですので、どうぞお気遣いなさらないで下さい。まぁ……グラスが素敵だと、普段のお水もとても美味しそうに見えますね」イレーネはグラスに注がれた水を見つめ、そんな彼女を呆れた様子で見つめるルシアン。「イレーネ様……なんと、健気な……それ程までに御苦労されていたのですね……」ある程度の事情は把握しているリカルドが給仕の手を止めて、ハンカチで目頭を抑える。「一体、何なんだ? この雰囲気は……まぁいい。食事を始めようか?」額に手を当て、ため息をつくとルシアンはイレーネに食事を勧めた。「はい! ありがとうございます!」元気に返事をすると、イレーネは早速フォークとナイフを手にした。「ふ〜ん……」イレーネが食事をする様子を観察しながら、ルシアンも料理を口に運ぶ。(少々……というか、かなり風変わりな女だと思っていたが……テーブルマナーは完璧だな。シエラ家なんて貴族は聞いたこともないが、それなりに教育は受けてきたのかもしれない)イレーネを育ててくれた祖父は、彼女がどこへ行っても恥じないように貴族令嬢の行儀作法を身につけさせた。それだけではなく、貧しいながらも学校にも通わせてくれたのだった。「早速だが、イレーネ嬢。食事をしながらで構わないので話をさせてくれ」ルシアンが声をかける。「はい、マイスター伯爵様」笑みを浮かべて返事をする。「リカルドの話によると、君は婚姻届に迷わずサインしたと言うが……本当に構わないのか? この結婚は正式なものではない。期間限定の結婚で、1年後には離婚するんだぞ?」「はい、伺っております。毎月30万ジュエルのお給金を頂ける上、退職金、それに家のプレゼント。そして次の就職先の紹介状まで書いて頂けるのですよね?」「は? 君は一体何を言ってるんだ? 俺はそんなことを聞いているわけじゃない。俺と婚姻して離婚をする
食事会の後――イレーネを先程の客室まで案内してきたリカルドが尋ねてきた。「イレーネさん。着替えの用意はあるのでしょうか?」「着替えですか? いいえ、ありません。もともと日帰りの予定でしたから」「ああ! そうでしたよね!」突如、リカルドが顔を両手で覆い隠した。「あの……リカルド様? どうされましたか?」「申し訳ございません……私を5時間も待っていたせいで、汽車に乗って帰ることが出来なくなってしまったのですよね……? 切符も無駄にさせてしまいましたが……御安心下さい!」突如、リカルドは顔を覆っていた両手を外した。「本日は日当として、イレーネさんに3万ジュエルをお支払い致しましょう。5時間も待たせてしまったお詫びと、汽車代として明日お渡ししますね」「3万ジュエルですか!? ほ、本当にそんなに沢山頂けるのでしょうか?」イレーネの顔が興奮のあまり、赤くなる。「ええ、私の言葉に二言はありません」「ありがとうございます! これで辻馬車を使うことが出来ます」実は今までイレーネは口にはしなかったが、両足に豆ができていたのだ。その足で長距離を歩かなくてすむのだから。「イレーネさん……本当に……うう……あなたという女性は……苦労人だったのですね……」リカルドの目がウルウルし始めた。イレーネに出会ったことで彼は涙もろい青年になっていたのだ。「いいえ、苦労だなんて思っていません。世の中にはもっと苦労している人々が大勢いるのですから。それに本日は最高の仕事に就くことが出来たのですから。今、とても幸せな気分です」あくまで前向きなイレーネ。「イレーネさん……絶対に、1年後……素晴らしい就職先を探してさしあげますね?」「ありがとうございます。リカルド様」そのとき、リカルドはあることを思い出した。「あ、そういえば……着替えの用意が無かったとお話されておりましたよね?」「ええ、そうです。でも平気です。1日くらい同じ服を着ていても」「いいえ、そういう訳にはまいりません。……そうですね。すぐに戻ってまいりますので少しお待ち下さい」リカルドは何かを考えた様子で返事をすると、足早に部屋を出ていった。「……足も痛むし……少し座って待たせていただきましょう」イレーネは客室に備え付けのソファに腰掛けると、静かに待っていた。5分ほど待っていると、大きな衣装ケ
翌朝、6時にイレーネは目が覚めた。「う〜ん……やっぱり、寝心地の良いベッドはいいわね。面接を受けに来ただけなのに、こんな風におもてなしを受けるとは思わなかったわ」ベッドの上で伸びをすると、イレーネは足裏に出来た豆の具合を見た。「……押すとまだ痛いけど、これくらいなら大丈夫そうね」持っていた端切れで手早く足の手当をすると、イレーネは早速昨夜用意してもらったデイ・ドレスに着替え始めた――****――7時約束通り、客室に迎えに来たリカルドと共に2人は誰もいない廊下を歩いていた。「誰もいませんね……?」辺を見渡しながら、イレーネが前を歩くリカルドに尋ねた。「ええ。ルシアン様の言いつけで、この時間他の使用人たちは別の場所で仕事をしています。その……まだイレーネ様を人目につかないように誘導するように言われておりますので」リカルドが言いにくそうに説明する。(どうしよう……気分を害されたりはしていないだろうか……?)心配になったリカルドはチラリとイレーネの様子をうかがう。「なるほど、確かにそうですね。ルシアン様から私のことが正式発表されるまでは、誰にも見られないほうが良いですね」「そうですか? ご理解して頂きありがとうございます」イレーネが全く気にする素振りもなく返事をしたことで、リカルドは安堵のため息をついた。「ところで……イレーネさん」「はい、何でしょう?」「そのデイ・ドレス……良くお似合いですよ?」「本当ですか? ありがとうございます。サイズも丁度良かったみたいです。こんなに素敵なドレスを貸して頂き、感謝しております。後日、きちんとクリーニングしてお返しいたしますね」その言葉に慌てるリカルド。「いえ! そんなことなさらなくて大丈夫です! こちらで洗濯は致しますので」「ですが……それでは申し訳なくて……」「本当に気になさらないで下さい。あ、書斎に到着しましたよ。お待ち下さい」リカルドは扉の前に立つと、ノックした。――コンコン「ルシアン様。イレーネさんをお連れしました」『入ってくれ』扉の奥でルシアンの声が聞こえる。「失礼いたします」リカルドが扉を開けると、すでに部屋ではルシアンがテーブルに向かって座っていた。「おはよう、イレーネ嬢。良く眠れたか?」「おはようございます、ルシアン様……あ、いえ。マイスター伯爵様。
朝食後――イレーネとルシアンは2人きりでリカルドが淹れてくれた紅茶を飲んでいた。「ルシアン様、一晩の宿と食事まで用意して頂きありがとうございました。これから1年間、誠心誠意を込めてお仕えさせていただきます」背筋を伸ばしたイレーネは真剣な眼差しでルシアンを見つめる。「そうか? ではマイスター家の現当主である俺の祖父に会う際は、しっかり妻の役を演じてもらうぞ? 祖父の信頼を得られて、俺が正式な後継者に相応しいと認められた暁には臨時ボーナスに、さらに給金を上乗せしよう」「本当ですか? ありがとうございます! ルシアン様が後継者になれるように私、精一杯頑張ります!」お金の話になると、遠慮が無くなるイレーネ。それだけ彼女は追い詰められていたのだ。「そ、そうか? ……今まで悪いと思って聞かなかったが……ひょっとすると、君はお金に困っているのか?」「え、ええ……そうなのです……お恥ずかしいお話ですが……」イレーネはうつむき加減に返事をする。「まぁ……普通に考えれば、お金の為に契約結婚に同意するような女性はいないだろうな。何しろ離婚歴がある女性は男性からの評判は…落ちるからな。今後再婚するのも難しくなるだろう…」少しだけ罪悪感を感じるルシアン。だからと言って本当の伴侶を持つ気など、彼には一切無かった。「そのような御心配はしていただかなくても大丈夫です。私の結婚のことで気をもむような身内は誰もおりません。もとより、私のような落ちぶれた貴族を妻に望む男性はいるはずもありませんから。第一、私と結婚しては相手の方に借金を背負わせてしまうことにもなりますので」堂々と自分のことを語るイレーネは、ルシアンの目に新鮮に写った。「唯一の肉親を亡くしていることはリカルドから聞いていたが……君には借金があったのか?」「はい……元々シエラ家は貧しい男爵家だったのですが、祖父が病に倒れてからはお医者様に診ていただくために増々借金が増えてしまったのです。なので本当に今回の雇用には感謝しているのです。借金返済の為に、屋敷を手放そうと考えておりましたので。ルシアン様とリカルド様のお陰で宿無しにならずにすみました。本当にありがとうございます」再び御礼の言葉を述べるイレーネ。だが、その話はルシアンにとって、あまりにも衝撃的だった。「な、何?! それでは君は実家を失うということか?
9時―― ルシアンは書斎でリカルドに尋問していた。「全く……お前は、どうして肝心なことを言わない? イレーネ嬢に借金があって、住む場所も無くしそうだということを何故黙っていた?」「申し訳ございません。ただ、こちらは非常にデリケートな話でありまして……私はイレーネさんのマイナス評価になりそうな部分を伏せておきたかったのです。プライバシーの問題でもありましたし。いずれ、ご本人の口からルシアン様に告げられるだろうと思いましたので……」その言葉にルシアンはため息をつく。「……別に、そんなことで彼女の評価を下げたりなどしない。遊んで自ら借金を作ってしまうような女性では無いことくらい、見て分かったしな」すると、リカルドが意味深な笑みを浮かべる。「おやぁ……ルシアン様。もうイレーネさんの人となりが分かったような口ぶりですね?」「な、何だ? その顔は……?」「いえ、何でもありません。ですが……素敵な女性だとは思いませんか? 外見もさることながら、性格も」「……だが、所詮は女だ」ルシアンは視線をそらせる。「ルシアン様、ですが……」「それよりもだ! どういうことだ? 何故彼女があのドレスを着ていたのだ?」「それは、イレーネさんが着替えを持ってきていなかったからです。でもよくお似合いでした。そうは思いませんでしたか?」「そんなことはどうでもいい。俺が言いたいのは、何故彼女にあのドレスを用意した? 他にも女性用の服があるはずだろう?」リカルドを睨みつけるルシアン。「あるのかもしれませんが、女性用の服を管理しているのはメイド達です。彼女たちに用意させられるわけにはいきませんでした。私が準備できたのはあの方が残されたドレスだったからです。その管理を任せたのはルシアン様ではありませんか」「あれは別に保管しろという意味で言ったわけじゃない。全てお前に任せるという意味で託したんだ。そこには捨てておけという意味だってあるだろう?」「そんな……私の独断であの方のドレスを捨てるなど出来るはず無いではありませんか。捨ててほしかったなら、はっきりそう仰って下さい」「……もういい! この話は終わりだ。それで、今肝心のイレーネ嬢はどうしている?」書類の山に目を通しながらルシアンは尋ねた。「はい、『コルト』へお戻りになられました。2日後に必ず戻ってまいりますと話されてお
ガラガラと走り続ける辻馬車の中で、イレーネは窓から外の景色を上機嫌で眺めていた。「もうすぐ、私はこの町に住むことになるのね……1人で行動できるように道を覚えておかなくちゃ。フフフ……それにしても夢みたいだわ。田舎者の私がこんな大都会で暮らすことになるなんて。本当にリカルド様とルシアン様には感謝をしないと」イレーネの心はこれからの新生活に浮き立ち……駅に辿り着く迄の間、ずっと窓の外を注視し続けるのだった。 馬車が駅前広場に到着したのは9時半を過ぎていた。「どうもありがとうございました」御者に馬車代、1500ジュエルを支払うとイレーネは駅前に降り立つ。「昨日も感じたけど、土ぼこりが立たない町というのは新鮮ね。おかげで、お借りしたドレスが汚れなくて済むもの」イレーネは自分の着ているドレスを見ると、次に手帳を取り出した。ここには時刻表が記されている。昨日この駅に降り立った時に、彼女が事前に時刻表をメモしておいたのだ。「今が9時半だから……次の汽車まで後1時間くらいあるわね……どこかでお昼でも買っておこうかしら……あら? あの方は……?」噴水前で、昨日イレーネをマイスター家まで連れて行ってくれた青年警察官が年老いた老人に道を教えている姿が目に入った。「そうだわ、折角なので昨日のお礼を伝えましょう」そこでイレーネは少し離れた場所で、道案内が終わるのを待つことにした。やがて老人は道が分かったのか、お辞儀をすると背を向けて去って行く。「道案内が終わったようね」すると、青年警察官の方がイレーネの視線に気付いた様子で近付いてきた。「あの……もしやあなたは……?」「こんにちは、お巡りさん。昨日はお仕事中なのに、私をマイスター伯爵家まで連れて行っていただき、心より感謝いたします」笑顔で挨拶するイレーネ。「ああ、やっぱりあなただったのですね。見事なブロンドの髪だったので、もしやと思ったのですが。もしかして、今から帰るのですか?」「はい、そうです。でも、2日後にはここに戻ってまいりますが」「え? そうなのですか?」その言葉に目を丸くする警察官。「はい。私、この町で暮らすことが昨日決まったのです。なので、これからまたどこかでお世話になることがあるかもしれませんね? その時はまたどうぞよろしくお願いいたします。お巡りさん」「そうですね。困ったことが
汽車に乗って3時間後――『コルト』の駅に降り立ったイレーネ。「今の時刻は13時半ね……ルノーは弁護士事務所にいるかしら?」イレーネは屋敷を処分する法的手続きをルノーに頼もうと考えていたのだ。「ルノーがいなくても、誰かしらいるかもしれないものね。とりあえず訪ねてみましょう」そしてイレーネは豆が出来た足を引きずるように、ルノーが勤務する弁護士事務所に向かった――**** 駅から大通りを歩いて10分程の場所にルノーが勤務する弁護士事務所はあった。イレーネは扉の前に立つと、早速ノックをした。――コンコン「はい、どちら様でしょうか? え!? イレーネ!?」扉を開いたのは偶然にもルノーだった。「まぁ、ルノー。丁度良かったわ。あなたに頼みたいことがあったのよ」笑みを浮かべる。「イレーネ、な、何故ここに……!? いや、それよりも一体昨日はどうしたんだ? 仕事の終わった後、君の家に行っても留守だったじゃないか。あのとき、どれだけ俺が驚いたと思っているんだ?」ルノーは余程心配していたのか、矢継ぎ早に質問してくる。「待って、落ち着いてちょうだい。ルノー、実はあなたにお願いしたいことがあるのよ」「お願い? 俺に?」「ええ、実は……」その時――「ルノー。誰かお客様なの?」部屋の奥で声が聞こえ、ウェーブのかかったブラウンの髪の若い女性が現れた。「あ! クララ……」ルノーがうろたえた様子で女性の名を呼ぶ。クララと呼ばれた女性はイレーネを見ると眉をひそめて話しかけてきた。「あの、失礼ですがどちら様ですか? ここはジョンソン弁護士事務所ですけど? お客様でしょうか?」「い、いや。彼女は……客ではなく……」「はい、客です。本日は幼馴染のルノーに用事があって、訪ねました」言葉を濁すルノーに代わり、イレーネが返事をする。「え……? 幼馴染……? まさか、あなたはイレーネ・シエラ様ですか?」「はい、そうです。もしかしてルノーから私の話を聞いているのですか?」笑顔でクララに尋ねるイレーネ。「ええ、少しだけなら。……そうですか。あなたがあの、イレーネ様なのですね。それで、一体今日はルノーに何の用があるのですか?」「はい、それは……」そこへルノーが二人の間に割って入ってきた。「イレーネ、実は今急ぎの仕事で忙しいんだ。また今度にしてもらってもい
約40分前のこと――顔にヴェールをかぶせ、イブニングドレス姿のベアトリスがレセプション会場に入場した。「ベアトリス、君は今や世界的に有名な歌姫なんだ。時間になるまではヴェールを取らない方がいい」一緒に会場入りしたカインが耳打ちしてきた。「ええ。大丈夫、心得ているわ」ベアトリスは周囲を見渡しながら返事をする。「一体さっきから何を捜しているんだ?」「別に、何でも無いわ」そっけなく返事をするベアトリスにカインは肩をすくめる。「やれやれ、相変わらずそっけない態度だな。もっともそういうところもいいけどな」「妙な言い方をしないでくれる? 言っておくけど、私とあなたは団員としての仲間。それだけの関係なのだから」ベアトリスが周囲を見渡しているのには、ある理由があった。本当は、このレセプションに参加するつもりはベアトリスには無かった。だが、貴族も参加するという話を耳にし、急遽出席することにしたのだ。(今夜のレセプションは周辺貴族は全て参加しているはず……絶対にルシアンは何処かにいるはずよ……!)ルシアンを捜すには、隣にいるカインが邪魔だった。そこでベアトリスは声をかけた。「ねぇ、カイン」「どうしたんだ?」「私、喉が乾いてしまったわ。あのボーイから何か持ってきてもらえないかしら?」「分かった。ここで待っていてくれ」「ええ」頷くと、カインは足早に飲み物を取りに向かった。「行ったわね……ルシアンを捜さなくちゃ」ベアトリスは早速ルシアンを捜しに向かった――「あ……あれは……ルシアンだわ!」捜索を初めて、約10分後。ベアトリスは人混みの中、ついにルシアンを発見した。「ルシアン……」懐かしさが込み上げて近づこうとした矢先、ベアトリスの表情が険しくなる。(だ、誰なの……!? 隣にいる女性は……!)ルシアンの隣には彼女の知らない女性が立っていた。金色の美しい髪に、人目を引く美貌。品の良い青のドレスがより一層女性の美しさを際立たせていた。彼女は笑顔でルシアンを見つめ、彼も優しい眼差しで女性を見つめている。それは誰が見ても恋人同士に思える姿だった。「あ、あんな表情を……私以外の女性に向けるなんて……!」途端にベアトリスの心に嫉妬の炎が燃える。(毎日厳しいレッスンの中でも、この2年……私は一度も貴方のことを忘れたことなど無かったのに
馬車が到着したのは、デリアの町の中心部にある市民ホールだった。真っ白な石造りの大ホールを初めて目にしたイレーネは目を丸くした。「まぁ……なんて美しい建物なのでしょう。しかもあんなに大勢の人々が集まってくるなんて」開け放たれた大扉に、正装した大勢の人々が吸い込まれるように入場していく姿は圧巻だった。「確かに、これはすごいな。貴族に政治家、会社経営者から著名人まで集まるレセプションだからかもしれない……イレーネ。はぐれないように俺の腕に掴まるんだ」ルシアンが左腕を差し出してきた。「はい、ルシアン様」2人は腕を組むと、会場へと向かった。「……ルシアン・マイスター伯爵様でいらっしゃいますね」招待状を確認する男性にルシアンは頷く。「そうです。そしてこちらが連れのイレーネ・シエラ嬢です」ルシアンから受付の人物にはお辞儀だけすれば良いと言われていたイレーネは笑みを浮かべると、軽くお辞儀をした。「はい、確かに確認致しました。それではどう中へお入りください」「ありがとう、それでは行こうか? イレーネ」「はい、ルシアン様」そして2人は腕を組んだまま、レセプションが行われる会場へ入って行った。「まぁ……! 本当になんて大勢の人たちが集まっているのでしょう!」今まで社交界とは無縁の世界で生きてきたイレーネには目に映るもの、何もかもが新鮮だった。「イレーネ、はしゃぎたくなる気持ちも分かるが、ここは自制してくれよ? 何しろこれから大事な発表をするのだからな」ルシアンがイレーネに耳打ちする。「はい、ルシアン様。あの……私、緊張して喉が乾いておりますので、あのボーイさんから飲み物を頂いてきても宜しいでしょうか?」イレーネの視線の先には飲み物が乗ったトレーを手にするボーイがいる。「分かった。一緒に行きたいところだが、実はこの場所で取引先の社長と待ち合わせをしている。悪いが、1人で取りに行ってもらえるか? ここで待つから」「はい、では行って参りますね」早速、イレーネは飲み物を取りにボーイの元へ向かった。「すみません、飲み物をいただけますか?」「ええ。勿論です。どちらの飲み物にいたしますか? こちらはシャンパンで、こちらはワインになります」 ボーイは笑顔でイレーネに飲み物を見せる。「そうですね……ではシャンペンをお願い致します」「はい、どうぞ
ルシアンが取引を行っている大企業が開催するレセプションの日がとうとうやってきた。タキシード姿に身を包んだルシアンはエントランスの前でリカルドと一緒にイレーネが現れるのを待っていた。「ルシアン様、いよいよ今夜ですね。初めて公の場にイレーネさんと参加して婚約と結婚。それに正式な次期当主になられたことを発表される日ですね」「ああ、そうだな……発表することが盛り沢山で緊張しているよ」「大丈夫です、いつものように堂々と振る舞っておられればよいのですから」そのとき――「どうもお待たせいたしました、ルシアン様」背後から声をかけられ、ルシアンとリカルドが同時に振り返る。すると、濃紺のイブニングドレスに、金の髪を結い上げたイレーネがメイド長を伴って立っていた。その姿はとても美しく、ルシアンは思わず見とれてしまった。「イレーネ……」「イレーネさん! 驚きました! なんて美しい姿なのでしょう!」真っ先にリカルドが嬉しそうに声を上げ、ルシアンの声はかき消される。「ありがとうございます。このようなパーティードレスを着るのは初めてですので、何だか慣れなくて……おかしくはありませんか?」「そんなことは……」「いいえ! そのようなことはありません! まるでこの世に降りてきた女神様のような美しさです。このリカルドが保証致します!」またしても興奮気味のリカルドの言葉でルシアンの声は届かない。(リカルド! お前って奴は……!)思わず苛立ち紛れにリカルドを睨みつけるも、当の本人は気付くはずもない。「はい、本当にイレーネ様はお美しくていらっしゃいます。こちらもお手伝いのしがいがありました」メイド長はニコニコしながらイレーネを褒め称える。「ありがとうございます」その言葉に笑顔で答えるイレーネ。「よし、それでは外に馬車を待たせてある。……行こうか?」「はい、ルシアン様」その言葉にリカルドが扉を開けると、もう目の前には馬車が待機している。2人が馬車に乗り込むと、リカルドが扉を閉めて声をかけてきた。「行ってらっしゃいませ、ルシアン様。イレーネさん」「はい」「行ってくる」こうして2人を乗せた馬車は、レセプション会場へ向かって走り始めた。「そう言えば私、ルシアン様との夜のお務めなんて初めての経験ですわ。何だか今から緊張して、ドキドキしてきました」イレーネ
「こちらの女性がルシアンの大切な女性か?」イレーネとルシアンが工場の中へ入ると、ツナギ服姿の青年が出迎えてくれた。背後には車の部品が並べられ、大勢の人々が働いていた。「え?」その言葉にイレーネは驚き、ルシアンを見上げる。しかし、ルシアンはイレーネに視線を合わせず咳払いした。「ゴホン! そ、それでもう彼女の車の整備は出来ているのだろうな?」「もちろんだよ。どうぞこちらへ」「ああ、分かった。行こう、イレーネ」「はい、ルシアン様」青年の後に続き、イレーネとルシアンもその後に続いた。「どうぞ、こちらですよ」案内された場所には1台の車が止められていた。何処か馬車の作りににた赤い車体はピカピカに光り輝いており、イレーネは目を輝かせた。「まぁ……もしかしてこの車が?」イレーネは背後に立つルシアンを振り返った。「そう、これがイレーネの為の新車だ。やはり、女性だから赤い車体が良いだろうと思って塗装してもらったんだ」「このフードを上げれば。雨風をしのげますし、椅子は高級馬車と同じ素材を使っていますので座り心地もいいですよ」ツナギ姿の男性が説明する。「ルシアン様の車とはまた違ったデザインの車ですね。あの車も素敵でしたが、このデザインも気に入りました」イレーネは感動しながら車体にそっと触れた。「まだまだ女性で運転する方は殆どいらっしゃいませんが、このタイプは馬車にデザインが似ていますからね。お客様にお似合いだと思います」「あの、早速ですが乗り方を教えてください!」「「え!? もう!?」」ルシアンと青年が同時に驚きの声をあげた――**** それから約2時間――「凄いな……」「確かに、凄いよ。彼女は」男2人はイレーネがコース内を巧みなハンドルさばきで車を走らせる様を呆然と立ち尽くしてみていた。「ルシアン、どうやら彼女は車の運転の才能が君よりあるようだな?」青年がからかうようにルシアンを見る。「あ、ああ……そのようだ、な……」「だけど、本当に愛らしい女性だな。お前が大切に思っていることが良くわかった」「え? な、何を言ってるんだ?」思わず言葉につまるルシアン。「ごまかすなよ。お前が彼女に惚れていることは、もうみえみえだ。女性が運転しても見栄えがおかしくないようなデザインにしてほしいとか、雨風をしのげる仕様にして欲しいとか色々
10時――イレーネは言われた通り、丈の短めのドレスに着替えてエントランスにやってきた。「来たか、イレーネ」すると既にスーツ姿に帽子を被ったルシアンが待っていた。「まぁ、ルシアン様。もういらしていたのですか? お待たせして申し訳ございません」「いや、女性を待たせるわけにはいかないからな。気にしないでくれ。それでは行こうか?」早速、扉を開けて外に出るとイレーネは声を上げた。「まぁ! これは……」普段なら馬車が停まっているはずだが、今目の前にあるのは車だった。「イレーネ、今日は馬車は使わない。車で出かけよう」「車で行くなんて凄いですね」「そうだろう? では今扉を開けよう」ルシアンは助手席の扉を開けるとイレーネに声をかけた。「おいで。イレーネ」「はい」イレーネが助手席に座るのを見届けると、ルシアンは扉を閉めて自分は運転席に座った。「私、車でお出かけするの初めてですわ」「あ、ああ。そうだろうな」これには理由があった。ルシアンは自分の運転に自信が持てるまでは1人で運転しようと決めていたからだ。しかし、気難しいルシアンはその事実を告げることが出来ない。「よし、それでは出発しよう」「はい、ルシアン様」そしてルシアンはアクセルを踏んだ――****「まぁ! 本当に車は早いのですね? 馬車よりもずっと早いですわ。おまけに少しも揺れないし」車の窓から外を眺めながら、イレーネはすっかり興奮していた。「揺れないのは当然だ。車のタイヤはゴムで出来ているからな。それに動力はガソリンだから、馬のように疲弊することもない。きっと今に人の交通手段は馬車ではなく、車に移行していくだろう」「そうですわね……ルシアン様がそのように仰るのであれば、きっとそうなりまね」得意げに語るルシアンの横顔をイレーネは見つめながら話を聞いている。その後も2人は車について、色々話をしながらルシアンは町の郊外へ向かった。****「ここが目的地ですか?」やってきた場所は町の郊外だった。周囲はまるで広大な畑の如く芝生が広がり、舗装された道が縦横に走っている。更に眼前には工場のような大きな建物まであった。「ルシアン様。とても美しい場所ですが……ここは一体何処ですか?」「ここは自動車を販売している工場だ。それにここは車の運転を練習するコースまである。実はここで俺も
翌朝――イレーネとルシアンはいつものように向かい合わせで食事をしていた。「イレーネ、今日は1日仕事の休みを取った。10時になったら外出するからエントランスの前で待っていてくれ」「はい、ルシアン様。お出かけするのですね? フフ。楽しみです」楽しそうに笑うイレーネにルシアンも笑顔で頷く。「ああ、楽しみにしていてくれ」ルシアンは以前から、今日の為にサプライズを考えていたのだ。そして直前まで内容は伏せておきたかった。なので、あれこれ内容を聞いてこないイレーネを好ましく思っていた。(イレーネは、やはり普通の女性とは違う奥ゆかしいところがある。そういうところがいいな)思わず、じっとイレーネを見つめるルシアン。「ルシアン様? どうかされましたか?」「い、いや。何でもない。と、ところでイレーネ」「はい、何でしょう」「出かける時は、着替えてきてくれ。そうだな……スカート丈はあまり長くないほうがいい。できれば足さばきの良いドレスがいいだろう」「はい、分かりましたわ。何か楽しいことをなさるおつもりなのですね?」「そうだな。きっと楽しいだろう」ルシアンは今からイレーネの驚く様子を目に浮かべ……頷いた。****「リカルド、今日は俺の代わりにこの書斎で電話番をしていてもらうからな」書斎でネクタイをしめながら、ルシアンはリカルドに命じる。「はい。分かりました。ただ何度も申し上げておりますが、私は確かにルシアン様の執事ではあります。あくまで身の回りのお世話をするのが仕事ですよ? さすがに仕事関係の電話番まで私にさせるのは如何なものでしょう!?」最後の方は悲鳴じみた声をあげる。「仕方ないだろう? この屋敷にはお前の他に俺の仕事を手伝える者はいないのだから。どうだ? このネクタイ、おかしくないか?」「……少し、歪んでおりますね」リカルドはルシアンのネクタイを手際良く直す。「ありがとう、それではリカルド。電話番を頼んだぞ」「ですから! 今回は言われた通り電話番を致しますが、どうぞルシアン様。いい加減に秘書を雇ってください! これでは私の仕事が増える一方ですから」「しかし、秘書と言われてもな……中々これだと言う人物がいない」「職業斡旋所は利用されているのですよね? 望みが高すぎるのではありませんか?」「別にそんなつもりはないがな」「だったら、
「イレーネ……随分、帰りが遅いな……」ルシアンはソワソワしながら壁に掛けてある時計を見た。「ルシアン様、遅いと仰られてもまだ21時を過ぎたところですよ? それに一応成人女性なのですから。まだお帰りにならずとも大丈夫ではありませんか? 大丈夫、きっとその内に帰っていらっしゃいますから。ええ、必ず」「そういうお前こそ、心配しているんじゃないか? もう30分も窓から外を眺めているじゃないか」ルシアンの言う通りだ。リカルドは先程から片時も窓から視線をそらさずに見ていたのだ。何故ならこの書斎からは邸宅の正門が良く見えるからである。「う、そ、それは……」思わず返答に困った時、リカルドの目にイレーネが門を開けて敷地の中へ入ってくる姿が見えた。「あ! イレーネさんです! イレーネさんがお帰りになりましたよ!」「何? 本当か!?」ルシアンは立ち上がり、窓に駆け寄ると見おろした。するとイレーネが屋敷に向かって歩いてくる姿が目に入ってきた。「帰って来た……」ポツリと呟くルシアン。「ほら! 私の申し上げた通りではありませんか! ちゃんとイレーネさんは戻られましたよ!?」「うるさい! 耳元で大きな声で騒ぐな! よし、リカルド! 早速お前が迎えに行って来い!」ルシアンは扉を指さした。「ルシアン様……」「な、何だ?」「こういうとき、エントランスまで迎えに行くか行かないかで女性の好感度が変わると思いませんか?」「こ、好感度だって?」「ええ、そうです。きっとルシアン様が笑顔で出迎えればイレーネさんは喜ばれるはずでしょう」「何だって!? 俺に笑顔で出迎えろと言うのか!? 当主の俺に!?」「そう、それです! ルシアン様!」リカルドが声を張り上げる。「良いですか? ルシアン様。まずは当主としてではなく、1人の男性としてイレーネさんを出迎えるのです。そして優しく笑顔で、こう尋ねます。『お帰り、イレーネ。今夜は楽しかったかい?』と」「何? そんなことをしなくてはいけないのか?」「ええ、世の男性は愛する女性の為に実行しています」そこでルシアンが眉を潜める。「おい、いつ誰が誰を愛すると言った? 俺は一言もそんな台詞は口にしていないが?」「例えばの話です。とにかく、自分を意識して欲しいならそうなさるべきです。では少し練習してみましょうか?」「練習までしな
イレーネ達が馬車の中で盛り上がっていた同時刻――ルシアンは書斎でリカルドと夕食をともにしていた。「ルシアン様……一体、どういう風の吹き回しですか? この部屋に呼び出された時は何事かと思いましたよ。またお説教でも始まるのかと思ったくらいですよ?」フォークとナイフを動かしながらリカルドが尋ねる。「もしかして俺に何か説教でもされる心当たりがあるのか?」リカルドの方を見ることもなく返事をするルシアン。「……いえ、まさか! そのようなことは絶対にありえませんから!」心当たりがありすぎるリカルドは早口で答える。「今の間が何だか少し気になるが……別にたまにはお前と一緒に食事をするのも悪くないかと思ってな。子供の頃はよく一緒に食べていただろう?」「それはそうですが……ひょっとすると、お一人での食事が物足りなかったのではありませんか?」「!」その言葉にルシアンの手が止まる。「え……? もしかして……図星……ですか?」「う、うるさい! そんなんじゃ……!」言いかけて、ルシアンはため息をつく。(もう……これ以上自分の気持ちに嘘をついても無駄だな……。俺の中でイレーネの存在が大きくなり過ぎてしまった……)「ルシアン様? どうされましたか?」ため息をつくルシアンにリカルドは心配になってきた。「ああ、そうだ。お前の言うとおりだよ……誰かと……いや、イレーネと一緒に食事をすることが、俺は当然のことだと思うようになっていたんだよ」「ルシアン様……ひょっとして、イレーネ様のことを……?」「イレーネは割り切っているよ。彼女は俺のことを雇用主と思っている」「……」その言葉にリカルドは「そんなことありませんよ」とは言えなかった。何しろ、つい最近イレーネが青年警察官を親し気に名前で呼んでいる現場を目撃したばかりだからだ。(イレーネさんは、ああいう方だ。期間限定の妻になることを条件に契約を結んでいるのだから、それ以上の感情を持つことは無いのだろう。そうでなければ、あの家を今から住めるように整えるはずないだろうし……)けれど、リカルドはそんなことは恐ろしくて口に出せなかった。「ところでリカルド。イレーネのことで頼みたいことがあるのだが……いいか?」すると、不意に思い詰めた表情でルシアンがリカルドに声をかけてきた。「……ええ。いいですよ? どのようなこと
イレーネが足を怪我したあの日から5日が経過していた。今日はブリジットたちとオペラ観劇に行く日だった。オペラを初めて観るイレーネは朝から嬉しくて、ずっとソワソワしていた。「イレーネ、どうしたんだ? 今日はいつにもまして何だか楽しそうにみえるようだが?」食後のコーヒーをイレーネと飲みながらルシアンが尋ねてきた。「フフ、分かりますか? 実はブリジット様たちと一緒にオペラを観に行くのです」イレーネが頬を染めながら答える。「あ、あぁ。そうか……そう言えば以前にそんなことを話していたな。まさか今日だったとは思わなかった」ブリジットが苦手なルシアンは詳しくオペラの話を聞いてはいなかったのだ。「はい。オペラは午後2時から開幕で、その後はブリジット様たちと夕食をご一緒する約束をしているので……それで申し訳ございませんが……」イレーネは申し訳なさそうにルシアンを見る。「何だ? それくらいのこと、気にしなくていい。夕食は1人で食べるからイレーネは楽しんでくるといい」「はい、ありがとうございます。ルシアン様」イレーネは笑顔でお礼を述べた。「あ、あぁ。別にお礼を言われるほどのことじゃないさ」照れくさくなったルシアンは新聞を広げて、自分の顔を見られないように隠すのだった。ベアトリスの顔写真が掲載された記事に気付くこともなく――****「それではイレーネさんはブリジット様たちと一緒にオペラに行かれたのですね?」書斎で仕事をしているルシアンを手伝いながらリカルドが尋ねた。「そうだ、もっとも俺はオペラなんか興味が無いからな。詳しく話は聞かなかったが」「……ええ、そうですよね」しかし、リカルドは知っている。以前のルシアンはオペラが好きだった。だが2年前の苦い経験から、リカルドはすっかり歌が嫌いになってしまったのだ。(確かにあんな手紙一本で別れを告げられてしまえば……トラウマになってしまうだろう。お気持ちは分かるものの……少しは興味を持たれてもいいのに)リカルドは書類に目を通しているルシアンの横顔をそっと見つめる。そしてその頃……。イレーネは生まれて初めてのオペラに、瞳を輝かせて食い入るように鑑賞していたのだった――****――18時半オペラ鑑賞を終えたイレーネたちは興奮した様子で、ブリジットの馬車に揺られていた。「とても素敵でした……もう